なぜ、日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのか?
なぜ、日本はハワイの真珠湾を奇襲したのか?
歴史の結果だけを見れば、真珠湾攻撃(1941)は日本の大勝利。
しかし、その後に勃発した太平洋戦争においては、日本はアメリカに惨敗を喫することとなる(1945)。
すでに結末を知っている我々は、冒頭のような問いを当然抱く。
なぜ、日本はアメリカと戦争したのか?
しかし、当時の人々は当然ながら結果を知らない。
アメリカから石油の輸出を止められてしまった当時の日本は、まさに窮鼠(当時の日本は、石油の8割をアメリカからの輸入に頼り切っていた)。
その窮状の中、日本はアメリカとの開戦を決意する。
それは、真珠湾攻撃の一週間前(12月1日)、御前会議にて決せられたことで あった。
この決意に先立つこと5日前(11月26日)、日本の艦隊はハワイに向けて「出港済み」であった。
すでに太平洋上にあった艦隊は、もし、開戦回避ならば「ツクバヤマノボレ」の電文、開戦ならば「ニイタカヤマノボレ1208」の電文を受け取ることになっていた。
御前会議の翌日(12月2日)、艦隊に届いた暗号電文は…、「ニイタカヤマノボレ1208」。
つまり、真珠湾への「奇襲決行」である。
ところ変わって、こちらはアメリカの日本大使館。
アメリカ在住の外交官たちは、戦争回避の想いを強く持っていた。
しかし、アメリカ国務長官「コーデル・ハル」氏との外交交渉は、全く思わしくない。
アメリカの求める厳しい条件(ハル・ノート)を日本が飲むことは、まず不可能であった。
それでも、何とかアメリカとの戦争だけは「回避」したい。
そこで、「来栖三郎」駐米特命全権大使は、「裏口工作」に踏み切った。
「国賊となってくれ」
来栖氏がそう言って白羽の矢を立てた相手は、「寺崎英成」であった。
「国賊」とはどういう意味か? 寺崎氏は来栖氏の真意を図りかねた。
来栖氏が寺崎氏に求めたのは、アメリカ大統領ルーズベルトに、「あるお願い」をすることだった。
あるお願いとは?
日本の天皇に直接「親電」を送ってもらいたい、ということだった。
つまり、ルーズベルト大統領に「アメリカが日本との戦争を望まない旨」を、昭和天皇に直接伝えて欲しいというお願いであった。
この国賊の汚名を着ることとなる工作が始まるのは11月26日。奇しくも、日本の艦隊が真珠湾へ向けて旅立った、まさにその日であった。
この密命を受けた寺崎氏は、死を覚悟する。
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国賊として死ぬつもりだった。
自分一人の死が、日本国民の命を救うことになるのならとの想いは、それほどに強かった。
この決死の工作は、なんと見事に成功。
ルーズベルト大統領は、昭和天皇に向けて親電を送ったのだ。
ルーズベルト大統領の親電が日本に到着したのは、真珠湾攻撃の前日(12月7日)。正確には、たった「15時間前」である。
ところが、この親書は東京電信局で「10時間」留め置かれてしまう。
なぜか?
当時の通信科の「戸村盛男」氏の記録には、こうある。
「もう今さら親書を届けても、かえって現場が混乱をきたす。
御親電は10時間以上送らせる処置をした」
時は真珠湾攻撃の前夜、戸� ��氏の判断により留め置かれた親電が昭和天皇の元に届けられたのは、真珠湾攻撃のわずか20分前(12月8日午前3時)であった。
そのルーズベルト大統領の親電とは?
その結びには、こう記されている。
「私と陛下が、日米両国民のみならず、隣接諸国の住民のため、両国民の友情を回復させる神聖な責務がある。
I am confident that both of us, for the sake of the peoples not only of our own great countries but for the sake of humanity in neighboring territories, have a sacred duty to restore traditional amity an prevent further death and destruction in the world」
この親電では、ルーズベルト大統領が日本軍に大幅な譲歩(インドシナ半島からの撤退)を強く求めているため、この親電が予定通りに届いたとしても、戦争を回避できた可能性は低かったかもしれない。
しかし、この親電は、何とか戦争を回避したいと切に願った日本人たちによる、悲痛なる懇願であったのだ。
しかし、その血のにじむほどの願いですら、意図した通りには届かなかった…。
こうした「すれ違い」は、日本の「宣戦布告」の時にも起こっている。
日本の宣戦布告は、真珠湾攻撃の「1時間後」にアメリカに知らされたのである。
結果として、日本は「宣戦布告なし」に、アメリカに奇襲攻撃を仕掛けたことになった。
これは、日本側の意図したものではなかった。
予定通りに事� �運べば、その宣戦布告は真珠湾攻撃の「30分前」に届くはずだった。
ところが、駐米の日本大使館に届けられた宣戦布告文(対米覚書)は、あまりにも直前であったため、指示された時間まで、翻訳と清書が間に合わなかったのである。
長々とした対米覚書(全14部)の最後の一枚が、やきもきするほどに来なかった。
ようやく届いたのは、指示された時間のわずか「2時間30分前」。
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その結果、この文書がハル国務長官に手渡されたのは、予定より「1時間」遅れてしまった。
つまり、日本の宣戦布告文たる対米覚書は、「真珠湾攻撃の後」にアメリカに手渡されたのである。
なぜ、最後の一枚だけが、それほど遅れてしまったのか?
そこには、日本国内で大きく揉めたことが、後の資料から判明する。
実は、アメリカに届けられた対米覚書は、最初の原文とは異なっていた。
決定的に違っていたのは、「一切の事態」という記述の有無である。
原文にはあった「一切の事態」という記述が、実際に送られた対米覚書では「削除」されてしまっている。
「一切の事態」とは、国際法上「戦争」を意味する正式な宣戦布告である。
ところが、アメリカに届けられた対米覚書には、この記述がない。
ということは、正式には宣戦布告文ではなかったのである。この文言を欠いた対米覚書は、単なる外交交渉の打ち切りしか意味していなかった。
つまり、もし時間通りに、この対米覚書がアメリカに届けられたとしても、結局は宣戦布告なしに真珠湾攻撃が開始されたと判断されてしまうのである。
なぜ、こんな中途半端な覚書になってしまったのか?
そこには、真珠湾攻撃を最後の最後まで「極秘」にしておきたかった日本軍の意図が介在したものと思われる。
そして、それが最後の一枚を大きく遅らせた原因ともなったのである。
果たして、この2つの「すれ違い」はアメリカに大きな「大義名分」を与えることとなった。
ルーズベルト大統領は、親電を直接天皇に送ってまで、戦争の回避を望んだ。
それにも関わらず、日本側はその申し出を踏みにじり、宣戦布告もなしにアメリカに攻撃を仕掛けて来た。
「この卑怯な行為に、アメリ� �は敢然と立ち上がる」
世界に向けて、アメリカは堂々と宣言したのである。
その結果、好戦的な日本に対して、アメリカはやむなく迎え撃ったという構図が見事に成立した。
正当性はアメリカにあり、日本の行為は不当とされたのである。結果的に戦争に負けた日本は、今もって、この構図に縛り付けられたままである。
しかし、この戦争を詳しく見ていくと、それは必ずしも真実とは言い切れない部分が多数浮かび上がってくる。
ナイアガラ滝1911凍結
日本への石油の輸出を止めるというアメリカの厳しすぎる「経済封鎖」に対しては、「自衛」のために日本が戦争せざるを得なかったという解釈も成り立つ。
もし、「自衛」のための戦争であれば、国際法上、宣戦布告は必ずしも必要とされない。
つまり、日本の「自衛」という主張が認められれば、宣戦布告なしの奇襲攻撃とされた真珠湾攻撃は、「卑怯」とは断じ得ないのである。
A級戦犯と断じられた東条英機・元首相は、その東京裁判で、こう主張している。
「日本は侵略のために戦争を始めたのではなく、安全保障(自衛)のためであった」
しかし、その声はどこにも届かなかった。
ところが、この東京裁判を行ったマッカーサー氏 は、のちの退任演説において、こんなことを言っている。
「日本が戦争へと向かった目的は、主として安全保障(自衛)のために余儀なくされたものである(Their purpose in going to war was largely dictated by security)」
しかし、この声は逆に日本に届かなかった(このマッカーサー証言が日本の教科書に取り上げられたことは一度もない)。
日本の自衛という主張は、結局まともに取り上げられることは、今もない。
それは、開戦前夜の日本のゴタゴタにも一因がある。
ゴタゴタの中で、致命的な「すれ違い」が続発したからである。
当時の日本では様々な思惑が交錯していた結果、その行動はスキだらけであった。
そして、アメリカは巧みにもそのスキに乗じ、見事にすべての大義を引き寄せたのである。
こうした情報戦やPR合戦において、日本はアメリカに完敗であった。
「情報」という観点で見れば、日本はその価値を軽んじすぎたのかもしれない。
それに対して、アメリカは日本が思う以上に 、情報に価値を見出していた。
アメリカは日本の暗号のほとんどを解読していたと言われている。
それは、日本も同様。暗号解読には熱心であった。
しかし、解読した情報が必ず大統領に届く仕組みになったいたアメリカに対して、日本が解読した情報は、必ずしも上層部に伝わるとは限らなかった。
それは、日本における「縦割り」の弊害でもある。
各省庁の判断で、伝える情報と伝えない情報があった。
先の戸村氏が、ルーズベルト大統領の親電を留め置いたのも、その弊害の一つであろう。
日本の各権力には、縦に深い溝が走っていたため、横のつながりに欠け、その構造上、「すれ違い」が起きやすい仕組みになっていたのである。
銃弾を交わすだけが戦争ではない。
情報というのも� ��立派な武器である。
太平洋戦争においては、アメリカほどこの武器(情報)を巧く使いこなした国はなかったのである。
これらは60年以上前の遠い過去の話であるのだが、どこか現在にも通じる要素が多々あるようにも思える。
歴史を眺めていると、人間がそれほど変わっていないということに驚かされることも多々ある。
我々は堂々巡りを繰り返しているのだろうか?
手を変え、品を変え…。
現在ヨーロッパで起きているユーロ金融危機において、度々引き合いに出されるのは1930年代。すなわち、世界大恐慌へと向かった歴史である。
その大恐慌はどこへ向かったか?
第二次世界大戦である。
まさか…。
でも…。
世界は変わり得るのか?
人間は変わり得� �のか?
それは、一人一人の心に委ねられているのではなかろうか?
「君子は諸(これ)を己に求む。小人は諸(これ)を人に求む」
自分の至らなさを人のせいにするのか、それとも自分の責任と感じるのか。
この言葉は、今から2,500年以上の昔を生きた「孔子」のものである。
とんでもない大昔の言葉にも関わらず、現在の我々も「はっ」とさせられる。
それはひとえに、我々が堂々巡りをしているからではなかろうか?
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出典:BS歴史館
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